日常に対価はない

 

日常に対価はない。それだけしか考えていない。

価値がないとは言わない。各々の日常に各々の価値はあるし、それを大切に守る人の行為を蔑みたいわけではない。

でも、日常に対価はない。何にも替えられない。大した意味がない。

”平日”に仕事をしないで眠っていることは労働の逆張りとして意味があるけれど、休日に遊ばないことは"休日"の意味論的下位互換でしかなく、なんの意味もない。本当にお金がないわけではないけれど、とにかくお金がない。本当にやる気がないわけではないけれど、とにかくやる気がない。本当に体力がないわけではないけれど、とにかく体力がない。

平日にいるときは土日をオアシスのように臨み続けるが、たどり着くとそれは逃げ水の幻想でしかない。資本主義から逃れられるオアシスなどどこにも存在しない。生きることには金がかかる。金を稼ぐには労働をせねばならない。労働は悪である。すなわち生きることは悪である。祖母から数十万円が送られてきた。無理矢理心身を削いで金を稼ぐことに意味をなくす、無力化の装置。やめてほしい。封筒のままある。

なんでこんな無理をして生きていかなければいけないのか。なんでこんな努力もなしに生きてこれてしまったのか。どんどんよくなるわけがない。ありえない。何にも心を動かされない。何にも体を動かされない。ただ赤いシークバーとともに時間が流れ、パタパタ時計とともに時が刻まれていくだけ。

別にどこからも誰からも助けは求めていない。そういうのは物語としてつまらないから。自分自身がどう飛び出るか、もしくはこのまま飛び出ないかでしかないから。病気だからと切り離そうとしたところで、症状は切り離せません。設定を変えたところで、映るのは私でしかありません。ずっと病院に通ってきたからわかる。幼いころから、10代のころから、悩みは変わっていない。いつまで続くんだこの引き延ばされた地獄が。別に地獄に光があってもいいけど、地獄が地獄であることには変わらない。汚れは溜まっていくんだよ。

昨日は実家に帰ろうとしてずっと寝ていて無理で、今日は日持ちのしないものを買ってしまったからと連絡があってしかたなく帰ろうとしたけれど髭を剃らないといけないことが無理で、やめた。私はずっとまともでしかない。私の中では私はずっとまともだから、私を含む全てがまともじゃない。死ぬか生きるかはっきりしろ。生きるか死ぬかはっきりしろ。